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 治験データは学会誌に公表せずとも治験依頼者(製薬企業)は薬事法に基づく製造承認等の申請ができる、と厚生省が政策変更した。それならば、第1、具体的な治験に被験者として参加することを提案された個々の患者個人としてどのような権利があるのか、第2、医プロフェッショナルとしてどのような権利があるか、について考えてみたい。その上で、第3、問題を原点に立ち帰って見直すために、厚生省の弁明の柱、すなわち情報集などによる公開で替えられるか、治験データの財産的保護をどうするか、についても議論の道筋を素描することにする。

 第1、その個人は、同意すれば、自らの心身を丸ごとかけて治験という臨床研究に参加することになる。治験は、研究者・医師と被害者・患者の共同作業である。個人は、治験について学習し、かつ、情報を知る権利がある。科学医学の水準を求める権利がある。これらの権利が土台になって下支えする、自らの情報をコントロールするプライバシーの権利、およびインフォームド・コンセントの権利がある。科学には組織化された懐疑主義(マートン)があり、科学とは科学者が相互に嘘をつかないようにするルールの集合である。(ノリス)。自らのデータが使われた治験の結果はどうなるか、それが公表され多くの専門家や公の批判・吟味にさらされ科学的評価に耐えるデータとして医学の進歩、将来の世代の患者たちに貢献することになるかは重大な関心事である。しかし、危険ないし無効のネガティヴ・データは公表されないことが多い(出版バイアス)。汚職事件で摘発された治験のデータが製薬企業による承認申請取り下げにより公表されなかった例もある。だから先ず、研究者・医師に、こう質問できるのではないか。「この治験データは学会誌で公表され公に批判・吟味されるのですか?」「もし結果が思わしくないなどの理由でデータが闇から闇へ葬られる可能性があるのでしたら、科学的評価に耐えない治験として、参加は無意味になるから、私はお断りします」

 第2、治験は、患者の治療と結びついているが、医療行為の限界に位置する、研究者・医師による学問研究活動の一部である。一方、製薬企業と医療機関との治験委託契約には製薬企業の同意なしに治験結果を公表できないとの公表制限特約がほぼ例外なくついている。しかし、学会や学会誌での発表を制約する特約は憲法が定める学問研究の自由に反し無効と考える。だから先ず、こう契約書を修正出来るのではないか。「治験責任医師、治験分担医師は、本治験により得られた結果を学会、研究会、学会誌などに発表することが出来る」

 第3、学会誌公表要件を廃止しても新医薬品承認審査概要(SBA)や新薬承認情報集を公開するから同じ、というのが厚生省の言い分である。この弁明は、厚生省はこれらの作成を製薬企業の同意のもとに行うからである。
治験に関する情報公開の2つの意味を混同させる。すなわち、これらは医療現場で医師や薬剤師に有用な情報を提供するという行政上の公開は意味するかもしれない。しかし、学会誌査読者の審査、同僚審査、多くの専門家および公の批判・吟味を可能にする、科学の名に値する学問・研究に不可欠の公開は意味しない。前者をもって後者に替えることは出来ない。日本の学会誌はずさんなものが多く科学的非行の抑制には役立たず公表義務付けの意味は少ないと考えるなら、廃止ではなく、むしろ学会誌の質の向上を促進・援助することこそ、国民の生を厚くする行政の果たすべき役割である。また、学会誌で公表されるとTRIPs協定による治験データの保護が出来ないから開発型製薬企業にとって不利なので政策変更するという。しかし、後発企業による不公正なデータの利用・援用は一定期間これを制限・禁止するとの国際協定をICHなどの場で提案し調印すれば足りることではないか。

 新GCPの施行によって治験実施計画書、総括報告書の作成責任者が医プロフェッショナルから製薬企業に移るなど、治験についての医プロフェッショナルの責任は縮小された。学会誌公表要件を廃止する厚生省の政策は、治験の科学性、学問研究性を衰弱減退させて治験を製薬企業の資本の論理・営業の論理で左右されるものに変質させ、個々の被験者・患者の権利を無視する、科学や倫理に挑戦するもの退行的と断ぜざるをえない。どう考えても、薬事法を改正しすべての国民に対する国の医薬品安全性確保義務を明文化し、医薬品の有効性・安全性の確保に第一義的な責任を負うのは製薬企業でなく行政である、科学的批判的吟味は専ら行政に任せよと宗旨替えをするようには見えないのだから。

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