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つれづれなるままに、思いついたことを何か書くようにという事務局からのご指示である。兼好法師は67歳で亡くなった(さらに2年間余分に生きたという説もある)ことになっており、我が身も、もうそろそろその限界ぎりぎりにまで達したことになるのだが、とても「つれずれなるまま」という心境には至らない。相変わらずせかせかと、または、おたおたと生き続けており、悟りや達観という境地にはほど遠い。
 2年ほど前に定年退職して、仕事の内容もがらりと変化した。神経難病患者や重症心身障害者の診療を行う仕事から、もっぱら健康な(はずの)人を診察し、多少の異常を見つけだしてはここに気をつけろ、あそこは大丈夫かと、まるで不安を探し出すことでお給料をもらうという仕事――俗にいう健診屋さんに変わったのである。もちろん、雇用者の健康を守ることは雇い主の義務であり、そのための法律や制度もあるのだから、世間的に何らやましい商売をしているわけではない。疾病を早期に発見し、重大にならないうちに指導したり、予防の措置を講じたりするというのが建て前である。異常のない人には安心感を与え、さらに仕事への意欲を高めてもらうというわけだから、まさに結構毛だらけ、猫灰だらけの商売である。にも拘わらず、何となく居心地の悪い思いが残るのはなぜだろうか。その理由のひとつは、予防医学の分野には、新薬承認の臨床試験で要求されるような、くじ引き法や目隠し法などの厳密な方法で証明されたエビデンスは数えるほどしかないという点にある。こうしたほうが良いですよと「生活指導」なるものを行っても、それではたしてどれだけの効果があるのか、教えている本人だって確信があるわけではない。いきおい説得には迫力が欠け、聞いている相手も挨拶程度に聞き流すから、飲み過ぎ・食べ過ぎ・働き過ぎの生活が変わることはほとんどない。多少、耳を傾けてくれるかなと思う相手だと、これがまた過剰に反応する。多少の異常を指摘されると、何かせずにはいられなくなる質の人々がいて、こちらが求めないことまでやってくれる。すぐに売薬を飲んだり、サプリメントを買い集めたり、得体のしれない民間療法に飛びつく。テレビや健康関連雑誌の記事も、さらに追い打ちをかけるから、手がつけられない。あげくの果ては、自律神経失調症とか「うつ」という診断を勝手につけて、驚くほどの種類と量の抗不安薬、抗うつ薬、睡眠薬を飲む。こうなってくると、下手に「異常」など指摘しなければ良かったという気さえしてくる。人体もまた「自然」の一部である。「自然」の変化は一部を繕ったり変えたりしても解決しないことが多い。「ああすればこうなる」式の単純な考え方を捨て、全体をシステムとして理解し、「養生する」という視点が今の日本社会には必要であるという養老孟司説に賛同したい。

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