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 2012年4月27日、新型インフルエンザ等対策特別措置法(以下、「特措法」)が成立した。この法律は、いわゆる新型インフルエンザの発生時に国民の生命及び健康を保護し、国民生活・経済に及ぼす影響を最小にするためとして、空港での検疫と感染者の隔離、予防接種の実施、学校・催事場等多数の者が利用する施設の使用制限の指示など、人権の制限を伴う強力な権限を政府に与えている。そのような権限を与える根拠となっているのが、最大で入院患者数約200万人、死亡患者数約64万人という被害想定である。

 この被害想定は、1918年に発生したスペインインフルエンザの被害規模から推計したもので、現在のわが国の衛生状況等は推計の前提となっていないという。しかし、100年前のスペインインフルエンザ流行時と現在の日本では、医療環境や衛生状況が著しく異なる。これを前提としない推計など、科学的とは到底言い難い。

 このような推計がおかしいことは、特措法制定を推進した人々も、十分分かっている。分かった上で彼らが使う殺し文句が、「対策は最悪の事態に備える必要がある」というものだ。

 薬害オンブズパースン会議は、医薬品の安全対策は予防原則の理念に基づいて行われるべきと主張している。『最悪の事態に備える』というのは、この予防原則にも通じる考え方であり、東北大震災・福島原発事故以降のキーワードとなっていて、なんとなく皆を納得させてしまう魔力がある。

 しかし、予防原則は、あくまでも科学的に予想される危険性を前提としたものだ。臨床・非臨床で得られた科学的データに基づいて予測される危険性の幅の中で、人の生命・健康に対する被害の防止を重視し、より安全側に立った判断と対策を求めるのが予防原則だ。特措法が『最悪の事態に備える』ものだというのは、予防原則とは全く異なる、ごまかしの論理だ。

 一方で、政府に強力な権限を与えるということは、これが濫用されて、過度の人権制限を招いたり、かえって社会的混乱を引き起こす危険性をもたらす。この危険の予測には根拠がある。

 09年新型インフルエンザの流行時には、「水際対策」も空しくインフルエンザは国内に侵入し、過度の対策はかえって医療現場に混乱をもたらして、輸入ワクチンの大量廃棄という無駄を生んだ。その原因の根本は、09インフルエンザの危険性を把握しないまま、「国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれ」を要件とする感染症予防法上の「新型インフルエンザ等感染症」対策を発動したことにある。そして、09インフルエンザの危険性が季節性インフルエンザと同程度と判明した後も、専門家は、「いつ変異して強毒化するか分からない」などと言い続けた。このような論法なら「おそれ」はいくらでも作り出せる。結果、政府が09インフルエンザによる「国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれ」はなくなったと宣言したのは、国民の09インフルエンザに対する警戒心などとうに消え去っていた、2011年3月である。

 このような前例があるにもかかわらず、権限濫用という事態に対する特措法の『備え』はきわめて不十分である。特措法が想定する死者64万人という危険と、政府による権限濫用の危険。あなたはどちらが実現可能性が高いと思われるだろうか。

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