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自分や家族や友人が薬害の被害者にならないためには、とミクロの世界を考えると、被害者の階層構造のようなマクロの問題が気になる。きっかけは、国際医学団体協議会(CIOMS)の倫理指針、すなわち、「人を対象とする生物医学研究の国際的倫理指針」2002年改訂版だ。その和訳がやっと完成した(臨床評価34巻1号、なお1993年版の和訳は臨床評価22巻2・3号)。
人についての医学研究について、ヘルシンキ宣言とは別の倫理指針を設ける理由について、ヘルシンキ宣言を発展途上国に適用するについては特別な環境という観点から別途検討が必要だからだと、CIOMS指針は説明している。先進国である日本でも、近年、アジア、オセアニア、アフリカ地域との国際共同臨床試験を促進する動きが高まっている。アジアにおける臨床データを承認申請に活用できるかという課題、欧米諸国からの「ブリッジング」からアジアも含んだ「国際共同同時開発治験」へと向かう論調が顕著である。グローバル化に対応して、日本でもCIOMS指針に関心が出てきているだろう。
ちょっと考えてみると、発展途上国の人々にのみ現れる特有の病気や症状についての医学研究については、CIOMS指針が説明するような観点からの指針の必要性はよく分かる。けれども、そのような病気や症状の治療・予防などのための人対象医学研究に限られることはないのに、何故設けたのだろうか。
先進国と発展途上国(先進国の貧困層も含む)の経済格差は著しいが、そのことは、人々の生活、病気や医療の状況の著しい南北格差の要因である。先進諸国は植民地支配などによってそのような結果をもたらしながら、新しい治療法等の開発の場面でも、発展途上国の貧しい人々を道具化し搾取しようとしているのではないか。発展途上国の人々さえ罹患するにしても、先進国の人々がかかる病気や症状を治療・予防するための医薬品等の開発に、発展途上国の人々を被験者として利用するのが主な目的ではないか。疑問はとどまらない。
この南北問題から連想される、薬害被害者の階層構造のような問題が、先進諸国の内部にはないだろうか。自分や家族以外の匿名の第三者でなるべくデータを出しておいて欲しいと密かに望む患者は少なくないだろう。治験など、医薬品等の開発・承認のための人対象医学研究では、一つの承認品目につき被験者の数は通常数百人に限られる。人についての医学研究においては、被験者間のみならず、母集団における、被験者に選定される者と残りの者との間の公平性も保たれなければならないと筆者は考えるが、選定される被験者と残りの患者たちとの間の、公平性は問題にされることは少ない。例えば、placebo(有効成分を含まない擬薬)対照群に割り付けられた被験者の問題は、説明同意理論への寄りかかりも手伝って、プロトコル(研究実施計画)ごとに問題が多い。人についての医学研究では、有害事象と副作用の区別は曖昧で、被験者は、被害に遭っても、添付文書はなく、それが医薬品候補物質に起因しているかどうか不明な場合が少なくない。また、説明同意文書には、研究の開発過程における意義や代替的治療法については、研究者の立場ないしは集団倫理で記載され、被験者の立場ないしは個人倫理で記載されていることは少ない。種々の要因が重なって、被験者は被害者と認識しにくい。有効性についてはともかく、安全性については、市販後の多数の患者による使用後のデータが加わらないと、人についての医学研究のみでは証明は不十分である。市販後の医薬品等を使用する多数の患者にとって、人についての医学研究でなるべくデータが出ていないと被害に遭う確率は高くなる。
慎重な人対象医学研究であれば安全性は高いといわれるが、その点を差し引いても、多くの患者である薬害被害者の陰に、潜在的で少数の、被験者である薬害被害者がいることを、常に考えるべきであろう。患者の権利法にもまして、被験者保護法が必要不可欠な所以でもある。

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