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年を重ねるにつれてリズムはワンテンポずつ遅れ、まわりについていけなくなる。同じ考えを饒舌に繰り返しては「もう判っているよ」という顔をされる。還暦もアッという間に過ぎ、体のあちこちにガタが来ていて、「アレだから」とか「アレ何て言ったっけ」を連発する。僕の代名詞依存症候群(!)は認知症の予備段階に違いない。
 弁護士になって37年目。親孝行のつもりで父の法律特許事務所に入ったこと、父の竹馬の友の頼みで教養課程の医学生・薬学生に法学概論・医事法を教えた(!)こと。やや特殊な境遇から僕は出発したかもしれない。駆け出しの頃バッジを付けずにいたら、法廷で裁判官から「あなたの弁護士さんは何処にいるの」と聞かれて以来、面白がってバッジを付けたことがない。とはいうものの、本当のことを言えば、バッジを付ける自信がないだけの話しだ。
 弁護士の仕事は、依頼者からの依頼がないと始まらないが、多くの弁護士がそうであるように、僕の場合も、仕事の依頼には二種類あった。一つは、具体的な案件を持ち込んで具体的な解決を求める、目に見える依頼者からの依頼。もう一つは、あるカテゴリーの人々のために、あるテーマで書き、話し、議論してほしいという、目に見えない依頼者たちを背後に背負った人からの依頼。
 目に見える依頼者は、弁護士と特別な関係に入る。その依頼に全力で応えることで弁護士としての実務と生活は成り立つ。もっとも、依頼者に正義ありという考え方があるものの、依頼をある程度は篩いにかけても、そうは信じられないケースもある。アリストテレスがニコマコス倫理学で言う「狭義における正義」を伴わないと、あまりやる気が起きないものである。それに、労働者に必要なのは詩情(ポエジィ)だとシモーヌ・ヴェーユは言ったが、目に見える依頼者が弁護士にポエジィまで感じさせてくれるとは限らない。この辺は弁護士の生き甲斐にも関わる。
 目に見えない依頼者たちは、弁護士がその人たちに力を尽くそうとして勝手にイメージする人々である。それでも、ドン・キホーテのドゥルシネーア姫のように、弁護士に夢や希望を与えるかもしれない。
 目に見える依頼者の後ろに目に見えない依頼者たちがいて、二種類の依頼がほぼ重なり合う弁護士は、意志と情熱が強いだけでなく、運がいいし、多分、善い弁護士なのだろう。僕も長く仕事を続けて来たせいで、そういう立派な弁護士に出会う機会も少なくなかった。しかし、自分に引き寄せて考えてみると、難しい生き方だ。他人事としてただただ敬服する他ない。なぜなら、例えば社会的弱者のために尽くすのが正義だと考えるとすると、弱者からのお金に依存して弁護士の生活を成り立たせるのは心理的に引っかかるし、実際に難しいと思うからだ。法的な興味や正義のみを追求したら経済的に成り立たないことが多いだろう。他方で、正義や人権とあまり縁のない、もっぱら経済法則の支配する世界で仕事をしてもあまり面白いようには思えないからでもある。
 僕の場合、二種類の依頼は隔たっていることが少なくない。二種類の依頼に対し、なるべく同等の熟慮とエネルギーを割いて応えるよう努めることで、何とかここまで仕事を続けて来れたように思う。
 そういうわけで、僕は、善い弁護士からは程遠いと感じる。有能な弁護士は沢山いるが、善い弁護士となると、そうはいないのではないか。「善い弁護士(グッド・ロイヤー)」のイメージの追求は僕の見果てぬ夢の一つである。それは「悪しき隣人(バッド・ネイバー)」だ、という法諺なんぞ信じたくはない。けれども、弁護士は、プラトンが「真実ではないことを真実であるかのように語る者」と規定したソフィストと同視されがちである。弁護士(ロイヤー)は嘘つき(ライヤー)との、僕のギリシャの友人が飛ばした駄洒落を笑い飛ばすことはできない。また、ロイヤーとは「法律の裏をかく技術に熟練している者」との、アンブローズ・ビアスの辛らつな定義も一面の真理と思える。
 善い弁護士とは何かについて、個々の立派な人の例を話すことは出来ても、皆に通用する言葉で若い人たちに自信は未だにない。自分、家族・友人、そして社会。この3つへの時間とエネルギーをバランスよく割きながら、最前線に立つことのできる勇気と知恵と体力を併せ持つこと。それが、善い弁護士への一里塚かもしれないが、何と、言うことは易く行いは難し、であろうか。

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